紅茶といえばイギリスですが、産地となるとインドやスリランカを思い浮かべます。
中でもスリランカは、昔は”セイロン“という名前でした。
そのセイロン、当初はコーヒーが有名でした。
コーヒーから紅茶へ

19世紀半ば、英国ロンドンでは2千あまりのコーヒーハウスが点在していました。
コーヒーはもちろん、紅茶やジュースなどが売られており、コーヒーはアラビアやトルコ、インドネシア、セイロンから運ばれていたものでした。
病気の蔓延

1500年代前半から1650年代半ばまで、セイロンはポルトガルが占領していました。
その後にオランダ人がポルトガル人たちを追放し、当時人気だったコーヒー栽培を出がけました。
そして1790年代の終盤にイギリスがオランダを制圧してセイロンが植民地になり、コーヒーハウスがイギリス内で増えていったそうです。

権利はすべてイギリス人が掌握していたことも要因として、コーヒーハウスが増えていったようです。
1840年代中盤頃から、スコットランドの開拓者たちが多く移住して、広大なコーヒー園になっていきました。
そんな中、1867年にジャワ島から、コーヒーの葉を枯らせてしまうサビ病の菌が入り込んでしまったことで、瞬く間に各農園のコーヒーが枯れていってしまいました。
枯らしてしまうその破壊力はとても大きく、野生のコーヒーも栽培したコーヒーも、東アフリカ、南インド、ジャワ島といった経由で壊滅させました。
もちろんどうにか手を打とうと、各農園は必死に病気を食い止めようとしたものの、新しい苗木もすぐに枯れてしまい、農園が次々に倒産へ追い込まれたようです。
紅茶への転換

コーヒーの栽培は、もはやあきらめるしかありません。
その代わり、栽培が難しいとされていた茶の木へ植え替えます。
サビ病が上陸する前、既にインドのアッサムでは紅茶栽培が成功しており、茶の需要が高まってることを各農園主は十分に知っていました。
ただ、栽培の難しさも同じように知っていたので、コーヒーから茶の栽培への切り替えようとしていた農園主はいなかったようです。
ジェームス・テーラー
セイロン紅茶の神様、と称えられる人物がいます。
ジェームス・テーラーです。
スコットランドの片田舎の出身で、いとこがセイロンから帰国し、セイロン行きをすすめられ、1852年2月20日にセイロン島のコロンボに降り立ちます。当時16歳です。
10年ほどコーヒー園で働き、サビ病の蔓延となった時期にはコーヒー園の壊滅を目の当たりにしたことでしょう。
自身が働く農園も例外ではなかったようです。
神様たる所以

ジェームス・テーラーは少年期から頭がよく、他の子どもたちに勉強を教えているほどでした。
そんな彼は、植物の栽培にかけても手腕を発揮しており、農園主はある依頼をします。
それは、シンコナの木の栽培です。
この木は、病熱を治す為に葉を取るための木で、キニーネという葉になります。
当時は抗生物質などなく、大変貴重な木とされていました。
彼は見事に栽培を成功させ、一時的に農園の危機を救いました。
この栽培の成功を受け、アッサム種の茶の苗木を渡され、多くの労働者とともに、険しい山岳地の整備を行いました。
なんと、インドで15年以上を有した茶の木の栽培を、ジェームス・テーラーは2年ほどで根付かせました。
加えて、製茶の技術も学習し、新しい揉捻機を作ったり、苗木の交配で強い品種を誕生させるなどし、コーヒー園は茶園になり、これによって救われた人々が、『セイロン紅茶の神様』として称えたのでした。

植民地支配や占領が当たり前だった当時とはいえ、この出来事がなければ紅茶はもちろん、あらゆる物事がどうなっていたのかなと思うほどの歴史の一つだと思います。
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