茶のはじまり、紅茶と言えばイギリスといったイメージに続いては、我が国「日本」の紅茶の歴史についても触れておきます。
日本は緑茶大国

日本は紅茶ではなく、緑茶の方が長い歴史や伝統があります。
決定的な記録ではないようですが、茶については仏教とともに中国からわたってきたものとされ、固形茶というものが最初だそうです。
また、大衆的な飲み物ではなく、仏前の供養物として、修行中の眠気覚ましとしての役割として重宝されていたようです。
奈良時代の西暦729年、聖武天皇が皇居の庭に多数の僧侶を集め、般若経を講じさせた翌日、茶を与えた記録はあるようです。

新茶の献上、宋時代の中国で開発された抹茶の法、種子の持ち帰りなどがあったのが西暦800年代あたりのようです。
初めて紅茶を飲んだ日本人
緑茶の歴史はかなり古いにせよ、紅茶を初めて飲んだのは誰なんでしょうか。
やはり殿様など、地位が高いとされる人が最初に紅茶を飲んだのかなと思いましたがそうではなく、伊勢の国の沖船頭、 つまり船に乗って運航の責任者となる船長のような役割をしていた人物でした。
名前は、大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)といいます。
1782年12月、紀州藩の米・瓦を積んで、白子港(三重県)から江戸に向けて出港するも、途中の遠州灘で暴風雨に見舞われ、ロシア領アムチトカというところに漂着してしまいます。
当時、日本とロシアには国交がなく、帰国の許可がなかなか得られない状況となり、出港時、17人いた仲間も次第に失っていってしまいます。

それからおよそ9年後の1791年6月、女帝のエカテリーナ二世に謁見の機会を与えられ、同年末にかけて帰国船の準備の間、お茶会に招かれました。
その際に紅茶(ミルクティー)を飲んだようです。
この史実から、昭和58年に11月1日を紅茶の日と定められています。
紅茶も輸出を
初めて紅茶を飲んだのが船頭ということを考えれば、日本の紅茶は緑茶に比べて歴史がかなり浅いことがわかります。
緑茶大国故に北米市場にも輸出をしていたようですが、1870年代、茶の需要はアングロサクソン系の国々では紅茶がメインとなっとおり、紅茶生産及び輸出にも外貨獲得の道筋を作ろうと日本政府は取り組みました。
1875年、中国の製茶技術者2名を日本に招き、熊本県と大分県に紅茶伝習所を設置します。
しかし、結果的に製茶技術者2名は紅茶の製造については詳しいわけではなく、成果があがりませんでした。
そこで政府は、多田元吉(ただ もときち)という内務省に設置された殖産興業を担当する一等寮である勧業寮員を中国に派遣、1876年に他の2名とインドにも派遣しました。
インドで英国式の紅茶製造技術を習得、翌年に帰国し、さっそく高知県で試作します。

1878年には、政府が紅茶製造法伝習規則を発布して、東京、静岡、福岡、宮崎に伝習所を設置しています。
翌79年には、追加で静岡と宮崎、滋賀、80年には岐阜、奈良、大分、熊本、鹿児島などにも伝習所は設置されました。

時代でいえば明治ですね。列強に名を連ねようとしていた時代でもありますね。
次々に伝習所が設置されたことから、市場の大きさに魅力があったことがうかがえます。
結果は失敗
伝習所を次々と設置し、かなりの力の入れようだということがうかがえましたが、試験輸出された結果としては失敗に終わっています。
この結果から、緑茶には好適の在来種の茶樹からでは良質の紅茶はできないということが判明しました。
しかし、1890年(明治23年)に東京西ヶ原に農務省直営の茶園を設け、多田たちがインドから持ち帰った茶の種子を用いて紅茶用品種の育成を始めました。
茶園は1919年に静岡県に移転され、茶業試験場として日本の紅茶生産研究が本格的に始まったのです。

諦めず、できる方法を見出し、研究を継続していたんですね。失敗をいかに生かすか、ですかね。
外国の紅茶がやってきた
『日本喫茶史料』によると、1856年に下田に来港したアメリカの使者が、13代将軍の徳川家定(江戸幕府)に献上した手土産「紅茶30kg」だったそうです。
アメリカの使者は日米修好通商条約を締結したことで知られるタウンゼント・ハリス、紅茶はインド・アッサム産の紅茶だと推測されているようです。
また、1874年(明治7年)には、地方紙に紅茶の広告が日本で初めて掲載されて、欧米では紅茶は”ブラックティー”と呼ばれていて、砂糖と牛乳を入れて飲まれていることが伝えられています。
1886年、三重県産となる国産紅茶が、東京・京橋の茶店に登場したと伝えています。

江戸末期から明治にかけて、日本としての転換期において、紅茶もその一部にあったことがワクワクします。
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